マルコ 7:29 それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。
「賽は投げられた」という言葉があります。古代ローマ時代、ポンペイウスと対立したカエサルが、ルビコン川を渡ってローマへ進軍するときに言った言葉だといわれています。ルビコン川を武装して渡ることは法で禁じられていたため、これを犯すことは宣戦布告を意味しました。事は既に始まっているのだから、考えている余裕はない、もはや断行するしかないのだということだという意味です。ネットことわざ辞典にそのように書いてありました。「事は既に始まっているのだから、考えている余裕はない」という言葉は、緊急性を意味しますが、神様の救いの出来事にも同じことがおこっています。
イエス様は、ユダヤ人の地域から異邦人の街へ行かれました。そこで悪霊に取りつかれた幼い娘をもつ母親に会います。彼女はイエス様に助けを求めるのです。しかし、イエス様は拒絶されます。まずイスラエルの子らに救いをと言われたのです。ところが「食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」という言葉の中に信仰をみいだされ、娘を癒されたのです。救いがその枠を飛び越えた出来事でした。
「食の境界の曖昧化」という現象が起こっているようです。実は「食」には暗黙の境界があると言われます。その一つが「大人」と「子ども」というものです。ところが現代はこの境界が曖昧にされているというのです。たとえば、握りずしはワサビが入っているのが当然のことでした。ところがスーパーに売ってある握りずしにはワサビは入っていません。小袋のワサビをつけてあります。これは気が抜けると言う理由ではなく、子どもも食べることを想定しているからです。つまり、握りずしの販売シェアが拡大したことになります。握りずしは大人の食べ物という暗黙の境界を見直したことによって、より多くの人々がそれを食べることができるようになったというわけです。大トロなど子どもの食べるものではなかったのです。私たちの中にある「暗黙の境界」というものを見直してみるのもいいかもしれません。「これはゆずれない」。本当にそうか、それによって妨げられてはいないか。実は自分勝手にそう思い込んでいるだけかもしれません。
イエス様は「それほど言うなら、よろしい」と言われ、異邦人に対する救いの枠を広げられました。これは境界の曖昧化ではなく、暗黙の境界を壊されたのです。それをさせたのは、母親の信仰でした。いま何が大切かを考えるとき、自分勝手につくった境界に縛られていないでしょうか。神様の福音は広がっていく、境界を越えて行く。だとすれば私たちが与えられている神様の業としての働きも、今一度の点検が必要です。「事は既に始まっているのだから、考えている余裕はない」のかもしれません。
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