1ヨハネ 4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。
海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。
ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。
教会では臨床宗教師と行政の話し合いが持たれました。現在被災地にカルトが入ってきているとのことでした。キリスト教や仏教の顔をしながら、支援品やお金をばらまいているようです。人の痛み苦しみにつけ込んで、最終的には人を惑わす道に引きずり込もうとしているのかもしれません。私たち臨床宗教師は公共性をもちながら活動しています。公共性と言う中には「惑わす」と言うこといっさいありません。宣教を目的としない宗教者とは考えられませんが、それこそが公共性であり惑わさない寄り添いだと言えます。
ヨハネは「真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることによると言うのです。神様のみ言葉を始まりの点にすることが、惑わされることがないのです。生活の中における中心を神様のみ言葉にするとき、私たちの生活はより豊かに祝福されていくのです。
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