マタイ 27:11 総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
九州学院で授業をしてきました。何か面白いことを話そうと思いますが、私の面白いと、生徒の面白いは違うみたいです。無理に面白くしてウケをねらわなくてもいいかなと開き直りのしんきょうです。それでも一つは聖書以外でためになる話をしようと思います。昨日は「主体的に生きる。行動する」ことが人生の成功の秘訣だと話しました。すると「主体的ってなに~」と質問があり、嬉しかったです。結局「自分で決めること」と話しました。全ての選択はじぶんですること、そこに責任を持つこと。その選択のもとにある原則が聖書のみ言葉だと言うことを話しました。うまく伝わったか、祈るばかりです。
イエス様はユダの裏切りによって捕えられ、総督ピラトに尋問を受けることになりました。ピラトは過越しの祭りの間、エルサレムの治安を守るために都に来ていたのです。ピラトはまず「お前がユダヤ人の王なのか」と、イエス様に質問します。これはイエス様の十字架につけられた罪状書きに書かれた言葉と同じです。ピラトとしては、イエス様を政治的反乱者として取り調べたのです。しかしイエス様の答えは「それは、あなたが言っていることです」というものでした。先に判断せず、よくみなさいといわれているようです。
「あなたはこんな人でしょう」と、先に言われることがあります。まだ話したこともないのに、先に言われてしまうとちょっと違うかなと思ったりします。そのようなことを話していたら、「自分でまず相手を規定しないと、受け入れることができない」のかもしれない。自分が受け入れる事が出来るように、相手を勝手に規定することで安心しているのじゃなかというのです。ですから、相手を受け入れることが苦手な人はその決めつけが強く、しかも一方的で、先に決めて、相手を従わせる傾向かあると。これは反応的ないきかたであって、主体的な生き方ではありません。私はこう考え、これを行うという選択をしかければありません。
イエス様は「それは、あなたが言っていることです」と言われました。総督ピラトはこの言葉に戸惑っています。その後の訴えにも、イエス様は何も答えられませんでした。ただ神様のみ言葉に従い、淡々と十字架に進まれるお姿を見ることができます。私たちはその姿をしっかり見ることが大切です。そこからはじめてイエス様が誰であるかをしることができるのです。
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