ルカ 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
いろいろな人達が遺言を残します。財産の処理や人生訓を残す方々もおられます。これら遺言だけを集めた本も出版されています。しかし、すべて死ぬまえに残されたものばかりです。もっとも、死んでからではどんなに語ろうとしても語れないものですが。この遺言といわれるものには、神秘の力があります。後の時代を築く人達を奮い立たせる、力が秘められています。逆に人々を分裂させる力もあります。どちらにせよ、人生の最後に、これだけは言っておきたいことがそこで語られるのです。
イエス様の遺言もあります。弟子たちのところから、天に昇られるまでに残された最後の言葉です。ところが、遺言は遺言でも、イエス様の場合は違います。イエス様が弟子たちに残された最後の言葉は、死を経験されたあとの言葉です。長い歴史において死んでのち言葉を残されたのは、イエス様しかおられません。いちど十字架の死によってお別れしたつもりでしたが、それは別れではなく復活までの再開の期間だったのでした。この再開までに弟子たちは多くのことを学びました。不安、裏切り、失 望、自分自身にたいする絶望。どれも原因はただ一つ、イエス様の御言葉を保つ事ができなかったからです。あれほどイエス様が復活すると約束されたのに、それを信じることができなかったのです。
私たちの尊敬する小泉潤牧師が天に召されました。先生の伝道するエネルギーの源はある信徒の遺言でした。長く慈愛園の施設長をしておられた潮谷先生は、ご自分の死を前にして小泉潤牧師を病床に招き遺言を残されました。「潤、このままではルーテル教会はつぶれてしまう。キリストに対して本気になれる者を集めよ」でした。この一言は小泉牧師を伝道へと駆り立てました。伝道に本気になれるキリスト者を集める。本気で泥まみれになってキリストのみ言葉に仕える。そのために生きた牧師人生でした。
キリストの遺言も3つのことが語られています。「十字架」「復活」「罪の赦しを得させる悔い改めの宣教」です。私たちがこのルーテル教会を通して語るべきこと、行うべき宣教はこの三つです。イエス様は、この宣教を私たちを信頼してお任せになりました。大変なことです。本気にならなければできないことです。しかし、イエス様の最後の言葉はもうひとつあります。最後の最後の言葉は、聖霊を与えるという約束です。この約束があるから本気になれるのです。
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