ルカ 5:15 イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
東京のルーテル教会で行われた「激論Ⅱ」で、講師の先生が「ルーテル教会は売上の落ち込んだレストランのチェーン店である」と表現しておられました。そのことがあったので、「なぜ、人は『餃子の王将』の行列に並ぶのか」という雑誌を読みました。その中で一番印象深かったのは「人を育てる」ということでした。そしてもう一つ「人は明るいところ、おもしろそうなところ、意外性のありそうなところに集まってくる」というものでした。多くの教会の教勢が減少する中、伸びている教会もあります。その教会を観察してみると、確かに「明るい、面白い、意外性」があるところに人は集まっています。
イエス様は、全身重い皮膚病にかかった人を癒されたあと厳しく「誰にも話してはいけない」と言われました。「うわさ」を警戒されたのかもしれません。癒しだけが先行するのを止められたのです。しかし、イエス様のみ心に反して「うわさ」は、ますます広がりました。大勢の群衆が集まってくるだけの要素がそこにあったのです。
会議に行く途中の新幹線のなかで、「桃李不言下自成蹊(とうりものいわざれども、したおのづからこみちをなす)」という言葉に出会いました。この言葉は司馬遷が著した「史記」の中の「李将軍伝賛」に出てくる言葉です。「桃李はもの言わざれども、下おのずから蹊(みち)を成す」という意味です。簡単に説明すれば、桃や李(すもも)は「美しく咲いたから、果実を美味しく実らせたからいらっしゃい」と自己宣伝などはしない。ただ、黙々とみずからの勤めとして精一杯花を咲かせ、あるいは実をみのらせているだけであるが、その美しさ、おいしさに惹かれて人々がやってくるので、下におのずから小径ができたというのである。きっとそういうことです。人も商売も、いかなることも、いかに宣伝しても実がなければ人は集まらず、間違って集まっても、やがて去ってゆくであろう。だまっていても中身が本物なら、中身がゆたかならば、おのずから招かれずとも人は集まり、商売ならば繁盛してゆくものである、と書いておられました。
イエス様のもとには大勢の群衆が集まってきました。人々をひきつけるものを持っておられたからです。集まった人々は「教えを聞いたり病気をいやしていただいたり」とあります。御言葉を聞くこと、病が癒されることは神様と出会うことです。集まってきた群衆に対して、イエス様のなされたことは福音をしめすことでした。大切なことは「何のために」という目標をもつことです。
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