マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために
子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。
イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。
「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。
「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。
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