マルコ 9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
冗談のように「信じる者は救われる」ということを言う人がいます。もっとも「信じる者は足をすくわれる」と言った人もいます。この「信じる者は救われる」とは、「信じて見なさいよ。ウソじゃないから」という思いや、「信じてみてごらん、なんとかなるよ」という意味でもあります。しかし本当の意味は「イエス様を信じる者は救われる」という者です。なんでも信じればいいということではありません。誰を信じているのか、何を信じているのか。信じると言うことは神様にすべてを委ねると言うことです。
イエス様のところへ、汚れた霊に取りつかれた息子を連れて父親がやってきます。父は息子を弟子たちのところへ連れて行き、汚れた霊を追い出してくれるように頼みましたができなかったというのです。そこでイエス様に対して「あなたにできるならば・・・」というのです。これはとても失礼な言葉です。はじめから疑っているのです。イエス様に全信頼をおいていない。信仰の力を信じていないということです。その「できれば」と言う言葉にイエス様は鋭く突っ込まれたのです。
日本には4万軒のコンビニがあると言われています。かなり多いと思いますが、お寺の数は8万寺だそうです。倍の数があります。その中で、あるお坊さんがお寺の危機を訴えておられました。それは、コンビニには人が多く通うのに、寺には若者が来ない。彼は友達から「お前のうちは人が死んだら儲かるな」といわれショックを受けたそうです。もともと仏教や寺は「生きるために必要」であるのに、「死んだら必要」となっている。コンビニの方が若者にとって「生きるのに必要」なものがあるというのです。本来あるべき信仰の力が信じられてない現状の中で、寺もお坊さんも「あせり」を感じると問題を訴えておられました。
教会はどうかと思います。教会は何のためにあるのか。同じような悩みとあせりを持ちつつ、あるべき姿を模索しているのかもしれません。イエス様は「できればと言うか」と問われました。信仰とは何かを問われています。イエス様に全信頼を置いて今日の宣教にあたらねばと感じます。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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