2コリ 1:4 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。三女が幼稚園の頃のことです。高熱をだして苦しんでいました。親として変われるものならば、その高熱を引き受けたいと思います。しかし、どうすることもできません。親はただ祈るのみです。娘にもそれを教えました。「苦しいけれどきっとイエス様がいっしょにいてくださるから。お祈りしようね」と。そして手を頭において祈ったのでした。
パウロは、2通目のコリントの信徒への手紙を、あらゆる苦難の中で私たちを慰めてくださる神様を称賛すすることから書き始めています。パウロをはじめ、彼と共にいる多くの信徒たちが受けた慰めによって、あらゆる苦難にあっている人々を慰めることができると言います。パウロにとって、キリストの苦しみに共に与ること、それが満ちあふれることで、キリストによる慰めも満ちあふれるといいます。共に苦しみに与ることが、共に慰めも与えられるのです。
昔話しに次のようなものがあります。
「ある男がお腹がすいたので、お菓子やさんで七枚の煎餅を買いました。彼はさっそく、これをポリポリ食べました。一枚食べましたが、お腹はすいたままです。男は二枚目を食べました。しかし、お腹はグウグウいうばかりで少しも一杯になりません。三枚目、四枚目、五枚目、六枚目、と男は次々に食べました。それでも空腹のままでした。しかし、あと一枚しかないので、彼は七枚目の煎餅を二つにわって、それを食べました。すると、今度はお腹が一杯になりました。残った半分の煎餅を手に持ちながら、男はくやしそうにいいました。『なんだ。俺はバカだな。このたった半分の煎餅でお腹が一杯になるんだったら、前の六枚は食べなければよかったんだ』と。」ちょっと読みでは、バカな男の笑い話です。しかし、これはお経のなかの物語の一つです。ということは何かの教訓を含んでいるんでいるのです。結局、今の自分はどのような道を通ってきた自分であるかを知らないということでしょうか。その道にあるひとつひとつの出来事が、それが試練や苦難、楽しさや喜びであってもいまの自分の平安を支えている。そのように読めました。
パウロは「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と言います。キリストが十字架で受けられた苦しみで、私たちの苦しみを慰めてくださるのです。共に苦しんでくださる神がおられる。その苦しみから立ちあがる力をくださる神を信じている。私たちの活動の中心には苦難を受けたイエス様がおられます。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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