マルコ 10:18 なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
物事を判断するということはとても難しいと言えます。どうしても先入観が先に立ってしまいます。自分では正確に判断したつもりでも、その判断にはなにかしら影響しているものがあります。まっさらな自分で判断することができれば、良いか悪いかがわかるのですが。結局一つの判断基準を持たされてしまっているなと思うことがしばしばあります。
本日の聖書は、イエス様が旅に出ようとしたとき、ある人が走り寄ってイエス様に質問をします。彼は金持ちだったと聖書は記しています。質問の内容は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」というものでした。それに対してイエス様は「十戒」を守る事、財産のすべてを施して「神様に従うこと」と答えます。その前に、イエス様は彼の質問の最初の「善い」という言葉に注目しておられます。なぜ私を「善い」というのかと。
禅の講和に次のような話があります。ある人が肉屋に行き、店の主人に「この中で上等のよい肉を切ってくれ」と頼みます。すると店の主人は「旦那、うちの肉に、よくない肉があるとでもいうのですかい」と答えたというのです。講和はそれだけです。どうも禅の話はわかりづらいですが、「とらわれ」を捨てなさいということでしょう。「善い」「悪い」を判断しているのは自分で、実際はそこには肉しかない。物事の差別しているのは自分の問題なのだということです。結局自分の勝手な判断によることから解放されなければ、物事の本質は見えないということです。
イエス様は「なぜわたしを善い」というかと言われました。善い先生、悪い先生ということを決めるのは自分の問題であって、神様の問題ではありません。神様に対して、善い神様ならきく、善くない神様なら聞かないというものはありません。神様に対しては従うことのみです。私たちに今日与えられた働きも「善い」「悪い」はありません。すべては神様から与えられた働きしかないのです。だからこそ、小さいと思える仕事でも誠実に行うことを求められています。
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