マタイ 26:26 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
印象に残る言葉というのがあります。しかし、よい印象として残ることばと、そうでない言葉があります。寅さんのように「それをいっちゃ~おしまいだよ」と笑って流せればいいのですが。「それだけは言ってはいけない」と言う言葉は、心に傷として深くのこります。また「その言葉がほしかった」というもの「これだけは忘れられない」という言葉もあります。それらは人に勇気や元気を与えます。イエス様の言葉は「これだけは忘れることができない」という言葉でした。最初の福音書を書いたマルコは、そんな言葉を集めて一つの書物にしたのでしょう。今日のみ言葉は、その中でも決して忘れることのできない言葉として私たちに伝えられています。
初代教会は、そのはじめから共同の食事を大切にしてきました。それは、イエス様との過越しの食事を想い出すためでした。また、それを大切な儀式へと発展させていきました。その食事に与ることで、イエス様との霊的なつながりを繰り返し体験していたのかもしれません。過越しの食事で重要なことはイエス様の言葉です。パンを割いて言われた「これはわたしの体である」は、弟子たちにどんな衝撃をもって受け取られたことでしょうか。
イスラエル旅行もはじめて行かれた参加者は、「すべてが聖書の通りでした」「イエス様がすぐそこにおられる感じでした」とお手紙をいただいています。キリスト者なら1度はガリラヤ湖畔に立つことが夢だということもわかるような気がします。いつも旅のスタートはカイザリアでした。ここはペトロによって異邦人伝道が始まったところであり、パウロが3年間幽閉されローマへ護送された港町です。世界伝道の起点の町です。雲一つない空と真っ青な地中海をながめながら開会礼拝をしました。それからイエス様の足跡をめぐり、旅の締めくくりは最後の晩餐の部屋での聖餐礼拝でした。なぜ、最後の晩餐がなされた部屋が締めくくりだったかといえば、そこはペンテコステ(聖霊降臨)の部屋だからです。聖餐礼拝をどこでするかスタッフ一同悩みました。結局は行ってから決めることになったのです。エルサレムに入る前には決めたいと思っていましたが、ガイドさんが「最後の晩餐の部屋で行うことができますよ。いろいろな団体が様々なことやっていますから」と教えてくださったのです。一か八か、もしかすると大勢の団体の喧噪の中での聖餐式になるかもと覚悟していました。ところが、なんと他の団体がいなくなったところで、静寂とともに行うことができました。これはやっぱり奇跡だと感じました。神様は必要なところへいつも導いてくださるのです。その思い出が忘れられません。
イエス様はパンを取り「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。その時、弟子たちはイエス様の言葉の意味がどれほど理解できていたでしょうか。しかし、この言葉と出来事は、二千年後の現在にいたるまで繰り返し礼拝で再現されています。イエス様の体をいただく。十字架の前におこなわれた過越しの食事の意味がわかるのは、十字架のあとのことでした。
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