ヨハネ 5:17 わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。
P.F.ドラッガーの「マネジメント」という本の一節に衝撃をうけました。「仕事とは、人格の延長である」と言うことばです。彼は「仕事を失うことが人を傷つけるのは、金銭ではなく誇りのためである」と言いました。また、「仕事は重荷であって、必要とされるもの。呪いであって、祝福となるもの」と言いました。自分にとって仕事とは何であるか、を問いなおす機会となりました。すべての働きは神様が与えてくださったもので、その目的は金銭ではありません。人格の延長としての仕事とは、神様の働きに参与することだと思います。
イエス様は羊の門(エルサレム)のそばにある「ベトサダ」の池で病気の人を癒されます。この池は間欠泉と言われており、たまに水が動くことがありました。人々はその水が動いた時に一番に池に入ったら病気が癒されるという迷信を信じていました。そこにイエス様がこられ、「み言葉を信じる信仰」が人を教え、病人を癒されました。しかしその日が安息日だったので、ユダヤ人たちに責められたのです。それに対して「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われました。神様の働きは人間の規定に従うものではないと言われたのです。私たちは自分の仕事をそのような働きとして受けとっているでしょうか。
ある方が「牧師職の神聖さを感じました」と話してくださいました。というのも、ある主日の礼拝説教の時、牧師がせき込んでおられたので水を持っていったそうです。すると、水を差し出した手がしびれて、何かに打たれたようだったとのこと。それからどうやって自分の席に帰ったかわからないと言われました。その体験から「牧師職の神聖さを感じました」といわれたのです。牧師を考える時、「召命」という言葉がでてきます。しかしそれは牧師に限ったことでなく、全ての職業に神様からの召命があるのです。その召命にそって働いている人間に、神様の力がやどっているのでしょう。そして、神様に用いられて働くそのことが宣教なのだと言えます。自分の与えられた働きを、祈りつつ行うこと。簡単なようでとても大変なことだといえます。いまの仕事が、神様から与えられたものだと信じている人はとても幸せだといえます。またそこに神聖さがあるのでしょう。
イエス様は「神様が今働いておられるから、私も働く」と言われました。それは、人の救いにかかわる働きは人間の考えを超えるところにあることを示されたのです。神様が今もなお働いておられるなら、私たちもその働きに参与するのだと教えてくださいました。今日の仕事は、神様の働きに参与していることを誇りにして過ごしたいと思います。
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