ヨハネ 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。
「これも支援物資なんださ」「洋服もぜんぶ支援物資だよ」「下着も全部支援物資なんだよね」と話してくれたおばちゃんがいます。そのあとに「助かるちゃねえ~みんな優しいから」と。おばちゃんの家は北上川の河川敷にあり、家は土台からすべて流されたそうです。何もかも全部流されて、残ったものは自分が来ていた服だけだと言われました。すべてなくなったけれど、パンツまで支援してもらって本当にありがたい。みんなの親切に涙が出ると言いながら、目頭を抑えておられました。はじめは小さな出会いからはじまったつながりが、どんどん次につながっていきます。神様から頂いた出会いはさらに広がっていくのだと思います。
イエス様は十字架にかかる前の緊迫した状況の中、弟子たちにぶどうの木のたとえをお話になりました。このたとえでは、木はイエス様であり、枝は弟子たちです。ぶどうの木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの交わりも強く結びついていることを示されました。
最近「つながっている」ということが気になっています。礼拝の中で、中村中(なかむらあたる)さんの「友達の詩」を聞きました。彼が16歳のときにつくった曲です。彼の人生にはいろいろな背景があります。体は男の子だけど、心は女の子である彼が届かない思い(彼に)をつづった曲です。「手を繋ぐくらいでいい 並んで歩くくらいでいい それすら危ういから 大切な人は友達くらいでいい」ただ切ないという曲には聞けませんでした。心の底にずしんとくるものを感じてしまいました。「手を繋ぐくらいでいい」という思い。先に天に召された父に対して、自分はいまこの思いではないのかなと。神様の国に生きている人たちとつながっていたい、つながりたい。そんなことはできないと思いつつも、しかしその人達を感じていたいという願いに聞こえたのです。
イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。私たちが実を結ぶ方法はひとつしかありません。それはイエス様につながっていることです。このつながりがまた、私が出会った人とつながります。するとその人はイエス様につながっていることになります。私たちがつねにイエス様につながっているということは、出会うすべての人をイエス様につなげることでもあります。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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