マタイ 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
精神分析医の言葉に「我々は他者の間違った行動を責め、良い行動は認めようとしないものである」があります。これを分析してみると、他者を否定的に見れば、優越感をもてるからだと言えます。しかし、精神分析医は「人が自分自身を健全で現実的な眼差しで見つめるようになれば、否定的な記憶は薄れる」と言います。まず自分を見ることから始めなければ、他者を認めることはできません。これができないから話し合いによって問題解決できないのです。よりよい解決案を見つけるには、まず相手を認めることからです。そこではじめて人と人との関係ができます。
イエス様は「人を裁くな」というテーマで3つの話をされました。イエス様が教えられた「人を裁くな」ということは、律法に対する新しい解釈でもあります。律法の働きは、つねに人が人を正しく裁くことです。イエス様は、人が裁いてはならないと言われす。なぜなら、人を裁くことができるは神様の権限でだからです。人が人を裁くときには、すでに人間関係が壊れていることを意味しています。
牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。これは私の説教の原点です。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス様は言われます。隣人を自分と見ることができるか。それは大きな問いでもあります。
イエス様は「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われました。自分を知ることの難しさを教えておられます。相手を自分の目で見る前に、自分自身を神様の目で見ることが求められます。それができれば、はじめて相手の目にあるおが屑の意味もわかります。お互いにそれができれば、何か問題が起こったときに解決する道を与えられるはずです。
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