ルカ 6:42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。
お釈迦さんの逸話話で次のようなものがあります。あるとき弟子に聞かれました。「世の中の道は木や石ころがあって歩くのにとても危険である。どうすればよいか」。すると弟子が答えます。「人間の歩く道をすべて鹿の皮で覆うとよいと思います」。するとお釈迦さんは諭されます。「世の中の道に全部鹿の皮で覆うのは不可能である。人間の足を鹿の皮で覆ったほうがよい」と。私たちは、どこを見るかでちがうものだと思います。
本日の聖書箇所は、イエス様の有名なたとえ話しです。ルカによる福音書では平地の説教と呼ばれています。そのなかにこの言葉がでてきます。解説は不要だと思いますが、改めてイエス様に指摘されると、確かに相手の小さな罪ばかりをあげつらっている自分に気がつかされます。見方を変えることで、真の悔い改めへと導かれるものだと思います。
かなり前のことですが、日経新聞のコラムで次のようなものを読みました。中国でゴルフ場がたくさん増えた。日本からの客も多いというので、中国女性がキャディの研修のために来日していた。彼女たちが最初に覚えさせられたのは、次の3つの言葉だった。1、どんなショットでも「先生、ナイスショット」2、トラブルになっても「先生、大丈夫」3、どうにもならなくなったら「先生、がんばりましょう」。「先生」という言葉は便利な言葉でもあり、やっかいな言葉でもあります。牧師もよく先生と言われますが、気をつけないとそのやっかいさに迷わされてしまいます。イエス様も「あなた方は先生であってはいけない」と言われました。ホントの自分から、かけ離れた存在になってしまう危険性をもっているからです。ファリサイ派の人たちや、律法学者たちの間違いはこの「先生」にあったのかもしれません。神様の前に立つとき、たとえ自分が先生という立場であったとしても、私には神様のみが先生であるという信仰が大切なのです。自分の目にある丸太とはこの「先生」のようなものかもしれません。
イエス様は自分の罪を見ないで、人の罪ばかり見ることに対して諭しておられます。自分を振り返ると、言われているようなことを多くしています。私たちは相手の罪をあげつらうのではなく、自分の罪を見つけ出し、悔い改めることが大切です。
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