ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
イスラム教では、人間の行為を五つに分けています。1、礼拝などのように必ずやらなければならない行為。2、親孝行などのようにやったほうが望ましい行為。3、やってもやらなくてもいい行為。4、喫煙などのようにやらないほうがいい行為。5、絶対にやってはいけない行為。この分け方は実は、1は必要善、2不必要善、4必要悪、5不必要悪となります。それでは3は善でも悪でもないとなります。これを基準に人間の行為を規定していくというのです。つまり、イスラム教もユダヤ教も善・悪・必要・不必要の両方の基準をきちんと持った宗教なのです。その中で神様とのつながりを考えています。
ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。つながりが基準なのです。
広島県教育委員会主催の「心の元気」1000人フォーラムという道徳教育研究会に、PTA会長として参加しことがあります。道徳の先生達の研修会だと思われます。「心に響く道徳の授業つくり」がテーマでしたから。先生たちが何を苦労しておられるか、道徳とは何かということが曖昧に感じられたのです。この違和感はいったどうしてと思いながらいくつもの授業例をみさせていただきました。そしてある教室に入ったときに「これだ」と感じたのです。それは副教材に牧師の生涯が取り上げられていたのです。それは信仰とはまったく違う角度で。イエス様に一言もふれず、その信仰にもふれずに一人の牧師の善行がとりあげられている。その牧師は信仰ゆえに生きたとおもうのですが。違和感はやっぱりそこでした。信仰(宗教)を基準としない道徳はありえないと思うのです。義務教育において特定の宗教に偏った授業をしてはいけません。しかし、道徳教育はどこに判断基準をおくかが大切です。私たちキリスト者はイエス様のみ言葉と教え、「聖書」に基準をおいています。ですからしっかりとした判断ができるのです。
私たちはキリストの御言葉という基準を持っています。ただしここに必要。不必要という考え方があまりありません。私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。
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