ヨハネ 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」
よく農村で「信用商売・お金はこの中へ」と書いて野菜と箱を見かけます。しかし、そこの管理者の方に出会うと「私は人間不信です」という声を聞いたことがあります。いったいなんでそうなるのかなと思っていました。同じ人間でも何かが違うということでしょう。その「何か」が一番大切なことだといえます。弟子達は聖霊を受ける前も後も同じ人間です。しまし、「何か」が違うのです。その「何か」を私たちももっています。しかし、その「何か」は神様のものであることだけは確かです。何か違うのです。
ピラトは、イエス様に死刑の判決をくだす前に3つの尋問をしています。「お前がユダヤ人の王なのか」。「いったい何をしたのか」。「それでは、やはり王なのか」です。ピラトはイエス様がなぜ民衆に訴えられているのかわかりませんでした。イエス様はどんな罪で訴えられているかを知ろうとします。しかし対話は噛み合いません。彼が期待した答えが得られないのです。イエス様は最後の質問に「それは、あなたが言っていること」と言われました。自分が何を質問しているのかわかっているのか、と言われたのです。なにか根本から違っていたのです。
ある本に「おいしいものを食べる」ことと、「おいしく食べる」ことは違うと書いてありました。なるほどと感心してしまいました。おいしいものをおいしく食べるのは簡単ですが、自分にとって苦手なものでもおいしく食べることは難しいものです。しかし、できないわけではありません。そこに「感謝」があれば、なんでもおいしくいただけるような気がします。毎月1回教会カフェの男の鉄板料理もちょっとそのような感じです。私もメンバーですから「おいしい」かどうかは判断しかねます。しかし、とっても「おいしく食べることができる」のではないでしょうか。教会のいいところは、「おいしく食べることができる」ということです。信仰を与えられている私たちは、試練がやってきてもそれを、神様の恵として受け取ることができるのです。私たちの人生「信仰によってどう受け取るか」が大切なポイントだと思います。
イエス様にピラトは「王なのか」と聞いています。それに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。王かどうか、それが問題なのはピラトであって、イエス様ではありません。イエス様は真理を証するために生まれたと言われました。王であるかどうかではなく、イエス様の存在の本質は何かをピアとは問わねばならないのです。この食い違いは十字架の後もこのまま聖書にしるされています。信仰の根っこにあるものを今日は問いつつ過ごしてまいりましょう。
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