ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・
ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。
イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。
神様の働きは前へ進むといつも思います。そこには神様が先回りしておられ、すべてを整えてくださっている。この奇跡をいつも感じることができます。「あなたの福音の道具として私をお使いください」と祈ってきました。本当にいろいろと使ってくださいます。その場その場で福音の証をさせていただけます。こんな私でも神様は使ってくださることが感謝です。今度はどんな風に使ってくださるか。私だけでなく、著作の一つ一つをどんな風に使ってくださるか。先週ドバイからお手紙をいただきました。ドバイってどこだかわかりませんが、手紙には「神様の色鉛筆を読んでいます」とありました。いったいどこまで福音の種は飛んでいるのでしょうか。
さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>