マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない
ある時、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。奥さんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ない」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは娘でした。その頃1歳、「痛いね」という言葉を覚えた娘は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。一番近いが一番遠いことにもなるなと思いました。
イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。もう少しなのですが、このもう少しが永遠でもあります。
「もう少し、人のことを考えて行動しなさい」とは、子どもたちによく注意する言葉です。しかし、自分自身を振り返っても「隣人のことを考える」余裕がどれだけあるかなと思います。ましてや人のことを考えるとはどういうことでしょうか。土曜日の昼の出来事でした。この日は給食がないので、子どもたちといっしょに食事をしなければなりません。たまたま今回は結婚式もありお弁当を買ってくることになっていました。長女と次女の仕事です。二人でフジに出かけていきました。かなり時間がかかったので心配していると、「食事の用意ができた」と内線を受けました。家へ帰ってビックリしました。というのも面白い弁当がそこにあったからです。「野沢菜炊き込み寄せ集め弁当」と書いてありました。娘たち曰く「まずお弁当売場にいって、お父さんが好きなものは何か考えた。高菜が好きなので探したけれどなかった。次にお父さんが好きな物は何か考えて二人でだしあった。するとこの弁当が一番好きな物が多くはいっとった」とのこと。なんだか嬉しくなりました。野沢菜と高菜は違うと二人で話し合ったけれど、きちんと話せばわかると思ったそうです。「もう少し、人のことを考えて行動しなさい」とはいいますが、自然とで来ているものだと思います。つねに家族の祈りの中で「仕えるものにしてください」と祈ってきました。それを神様が聞き届けてくださっているのだと思います。もしかすると、「もう少し、神様のことを考えて行動しなさい」ということと、隣人のことを考えることは同じかもしれないなあと、ふと思いました。
イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。「遠くない」「もう少し」とは自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある。しかしそれを生きるためには「もう少し」を考えねばなりません。それは私たちの職場でも生活でも同じです。「もう少し」とは何かをいつも考えながら、今日も一日を生きていきましょうね。
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