使徒 6:4 わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。
「自分はこんなことのために生まれてきたのではない」という歌をきいたことがあります。叫び声のような歌でした。自分が本来やりたい事、やるべき事が出来てないという苛立ちがあったのでしょう。しかし、私たちの人生は自分がやりたいことばかりが出来るのではありません。やりたくないこともせねばならないのです。ところが、やりたくない仕事でもできることがあります。それは使命をもつことです。本来与えられた働きに使命をもったとき、不満やなやみなどからかいほうされるのではないでしょうか。そうなると、自分が生かされている本来の使命を考える方がいいようです。
イエス様の昇天のあと、聖霊降臨のできごとがあり教会が誕生します。初代の教会は人々の群れでした。その群衆の世話を弟子たちがおこなっていたようです。その働きは「祈りとみ言葉の奉仕」だけでなく、集会の準備、食事の世話、悩み苦しむ人の相談、トラブルの解決など様々でした。そのような状態のなかで、弟子たちは迷い苦しみ、本来の使命とは何かを考え始めたのです。その使命をはたすためにはどうすればよいかを考えました。その結果、人々の中から世話役を選出するということにし、自分たちは「祈りとみ言葉の奉仕」に専念することにしたのです。
ある時期、教会の子どもたちは「ごっこ遊び」をするのが楽しかったようです。礼拝中に病院ごっこをしていたときがありました。その遊びの名残なのでしょうが、月曜日に集会室の窓をあけようとしたところ、張り紙を見つけました。その張り紙には「本日休業」と大きく書かれてありました。教会には休業があるでしょうか。人の命には休みがないように、教会にもまた休業はないといえます。しかし、この世の中にあって教会は「開店休業」のような状態にあるのではないかと考えてしまいました。イエス様の教会はいつでも開店しています。いわば24時間営業ですが、そこに来る人の数は年々減ってきているように思います。教会や信仰に必要性はわかっていても、わかりやすい安易な宗教の方が行きやすいのでしょう。地方教会の開店休業の問題は深刻になってきています。そのような「開店休業」状況の中にあっても、なおいつでも用意が整えられていなければなりません。どなたでも受け入れられる用意が必要だといえます。このような世の中だからこそ、いつでもキリストの用意はできていますと、福音を語り続ける使命を感じています
弟子たちは「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と宣言しています。本来の仕事は何か?それを十分できているか?なすべきことと、なさないでいいことの区別がはっきりしているかということでしょう。弟子たちの本来の仕事、その使命は「祈りとみ言葉の奉仕」でした。このことに専念することが彼らを生かすことだったのです。わたしたちにはそれぞれ神様から委ねられた働きがあります。それを十分にできているかを考えています。