ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ
90歳の会社社長さんのお話しがあり、テーマは「年金なんかもらわないほうが長生きできる」というものでした。というのも、人間はやることがなくなれば早死にするといわれるのです。お友達の例をとって、「ここ数年、現役で仕事をしたり、大学教授をしていた友達が、家族から『もう歳だから仕事はやめて年金生活でゆっくりしなさい』と、仕事を辞めさせられた。すると3ヶ月もしないうちにみんな死んでしまった」と笑いながら話されるのです。人は生きるために、自分が必要とされていることが大切だと力説しておられました。「今日やることがある」「自分が今日も必要とされている」という人生は、人を生かしていく。ということでしょうか。イエス様にとって必要でない人間などいません。私たちはみな、イエス様に必要とされて生きています。そのことに気がついたとき、私たちは本当に生きることの素晴らしさを見いだし、イエス様が友であることをしります。
ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。
日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。
イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。
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