ヨハネ 5:41 あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。
中国の昔話「笑林」に次のようなものがあります。
ある人が道を歩いているとき、けつまずいてころんだ。やっと起きあがって、いくらもいかないうちに、またころんでしまった。その人はカンカンになってののしった。「ちくしょう。こうと知っていれば、起きあがらないでいたのに」
よく考えてみると、笑えない話かもしれません。「私の人生ぜんぜんいいことない。こんなことならクリスチャンにならなきゃよかった」という人もいます。「こんな結果なら祈らなければよかった」という人もいます。神様は願いを聞いてくださいます。しかし、それは御心にそって聞いてくださるのです。もし、自分勝手な願いごとをいつも聞いて下さった、それこそ傲慢になり自分を神様とするような重大な罪に陥ってしまうでしょう。
イエス様はベトサダと呼ばれる池で、38年も病気で苦しんでいた人を癒されました。季節はユダヤ人の祭りのときだったと書かれています。またその日は安息日でした。そのことに関してユダヤ人たちはイエス様を批判し始めました。彼らの律法によっては、安息日には仕事をしてはいけないからでした。その批判に対してイエス様が言われたのです。
本日の箇所はイエス様の厳しい御言葉です。もし、私達がイエス様にそのように言われたとしたら、「はい、そのとおりです」と言うほかありません。しかし、愛はどこにあるのかと考えてみると、それは神様のもとにしかないことがわかります。私達は自分に愛があると考えています。だから、自分勝手になったり、傲慢になったりするのでしょう。愛はもともと人間のものではないとわかれば、愛を求める以外にありません。
神様を受け入れることは、神様の愛を受け入れることだと思います。いま受難節節をすごしています。この季節こそ神様の愛を受け入れる時だといえます。自分をしっかり見つめてみると、そこに「罪」をみいだします。そのときに「こんな私のために」と十字架がみえてきます。この季節が私たちに与えられていることは神様の恵みです。この時こそ待ちに待った季節と思いながら日々すごしています。
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