ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。18年も終わりに近づきました。新年は「最後から一歩手前の真剣さ」で歩みたいと思います。あくせくしながら、しかし、神様にお委ねしながら。そうすることによって、神様の平安が満ちあふれる人生となれば幸いです。最後の一歩手前の信仰ということを考えています。
イエス様が十字架に架けられたとき、左右に1本ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人は人生最後の時をイエス様と一緒に過ごしました。ただ、一人は救われたのですが、もう一人は最後までイエスさまをののしっていました。人生の最後での言葉がののしりだったこの犯罪人は、救いが何か、一緒にいてくださっているイエス様が神様であることを信じることができなかったのです。
「人生の最後の瞬間に何をしているかを考えたことがありますか」と、ある本で問われました。たぶんいままでの人生を振り返り、一番大切な人のことを祈っているかもしれません。その本にはつづけて、人生の最後に神様が現れて「あなたは生まれ変わって、もう一度、同じ人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか」と問われたら何と答えるかともありました。一番幸せな答えは「いろいろ大変なこともありましたが、もう一度この人生で結構です」というものでしょう。すべては神様の御心のままに生きているのですから、この人生でよいのです。
聖書は十字架上の出来事の中で「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と記しています。私たちの働き、人生を考えるとき、終わりから考えることも必要です。神様のもとで復活の命を与えられる私たちは、その救いから振り返って今を見ることが求められています。確実な救いからみて「今」はどうかを考えてみましょう。「もう一度この人生で結構です」と言える信仰を与えられています。その信仰に立って今日を生きていきましょう。
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