ルカ 14:15~17 「もう用意ができましたから、おいでください」といわせた。すると、皆、次々に断った。
「いまお仕事の調子はいかがですか」と、フィンランドからやってきた牧師さんに聞かれました。挨拶ですから「はい毎日忙しいですよ」と答えました。すると「その言葉は使わない方がいいですよ」とアドバイスを頂きました。その牧師さんは最近漢字を勉強したようで「忙しい」という字は「心を失くしている状態」と教えられたそうです。書いてみればその通りです。「忙しい」を理由にすることは、私はいま「心を亡くしている」状態ですと言っているようなものかもしれません。
イエス様が語られた「大宴会のたとえ」です。神様の国での食事する人はなんと幸いでしょうという客の言葉に対する教えです。ある人(マタイでは王様になっている)の大宴会に呼ばれた人々が理由をつけてこなかったという話です。招かれた人々は、はじめは行くつもりで返事をしたのでしょう。ところが行けなくなった理由が「畑を買ったから」「牛を二頭ずつ五頭買ったから」「結婚したばかりだから」というものでした。つまり現代用語にすれば「忙しい」からです。実はこの「忙しい」は万能の言葉で、これでことが許されると思っている人は多いです。しかし、イエス様の話は、神様の国のたとえです。呼んで下さったのは神様で、呼ばれた所は神様の国なのです。何をおいても一番重要な事柄です。
最近ある視点をもって人生を考えています。それは自分の人生で「緊急でなく重要なこと」を中心に置くことです。それは何でしょうか。自分がやっていることを考えると「緊急でかつ重要なこと」をまずしています。いわゆる、電話の応答、メールの返事、期限付きの約束、目の前の行事準備などなど。それも大切なことですが、人生にとっては毎日の行事消化にしかなりません。しかし「緊急でなく重要なこと」は将来の目標をもってやることです。いわゆる自分の使命(ミッション)を考え行う事です。今の自分にとって緊急でなく重要な将来の目標のためにすることは何かを考えるのです。
イエス様は「『もう用意ができましたから、おいでください』といわせた。すると、皆、次々に断った」と言われています。みな「自分のことで忙しかった」のです。私たちは何を最優先にすべきかではなく、最重要事項は何かを考えねばなりません。それは神様から託されている働きです。隣人を愛することです。そして具体的に動くことだと思います。「忙しい」を理由にしていると、結局何もできないのです。
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