ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。イエス様と私たちの関係も同じかもしれません。
ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。
真夜中のことでした。午前2時頃にベットに入りました。三女がいつものように隣に寝ていました。ちょっと頭をなでてあげていたら、なんと寝言で「神様いつもありがとうございます。アーメン」とお祈りしたのです。夢でもみているのでしょうが、寝言の中でもお祈りできるって素晴らしいなあと思ってしまいました。この話を家族にしました。すると全員「ご飯を食べている夢を見てたんじゃない」というのです。そう考えれば、毎回の食事時にそれぞれがお祈りすることになっていますので、「神様ありがとう。アーメン」は三女の毎日の祈りでもあるのです。しかし、夢の中でたべる食事でさえもお祈りして感謝できることって素晴らしいと思ったのです。
神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。
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