ヨハネ 9:41 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
相談をすると帰ってくる答えで一番多いのは、「わたしの経験からすると、こんな風に乗り越えた。だからあなたもこうすればいいよ」というものです。この答えは相談者にとって有効ではありません。人の話を自分の経験で解釈・判断した答えだからです。その人の自分中心の答えでは相談者は満足できません。相談している方は「まず聞いてもらいたい」のです。まず答えがほしいのではありません。この相手の立場にたって「まず聞く」ことが求められています。自分の判断を押しつけてはいけないのです。
イエス様によって、生まれつき目の不自由な人が癒されます。「見えなかったものが、見えるようになる」という奇跡を通して、神様の国が来ている事(イザヤ書の預言)が示されます。また、そこにおられるイエス様が神様の子であることも同時に示されます。しかし、ファリサイ派の人たちはそれを信じることができず、何度も本人に事情聴取をするのです。はじめから信じないのですから、奇跡と事実を受け入れないのです
宇部のダイトウ製版の事務所には、働いておられる方の趣味で熱帯魚がたくさん飼われていました。私などはグッピーしかわからないのですが、きっといろいろな種類が飼われているのでしょう。とても奇麗で、みんなオシャレなドレスを着ているみたいです。そのような華やかな水槽のなかに、一見グロテスクなものがいます。どうもナマズの一種のようで、水槽のガラスに張り付いて、あっちこっち移動しているのです。どうして、このようなナマズをと聞きましたら、実は水槽の掃除をするのだそうです。つまりゴミ処理魚というわけです。そこでよくみていますと、水槽をあっちこっちしながら、苔をたべています。また、魚のフンや、その他ゴミといわれるものを食べています。話によると、この一匹で、水槽はとても奇麗なのだそうです。ところが、問題は成長も一番早いとのこと。水槽を眺めながら、表で働いているものもいれば、裏でいつも働いている者があり、共同して生きているのだと感じました。どちらが表でどちらが裏という考えも間違っていますよね。この両方が、その命では表です。そしてこの命を支えておられる神様がいらっしゃるのです。
イエス様は「今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われました。自分たちの判断、基準では「見えている」と主張しても、実際は見えないことがあるのです。自分のことしか考えられない人たちも同じです。口語訳には「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある」となっています。自分の判断、基準だけが正しいのではなく、相手にも同じものがあることをまず考えていたいと願います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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