ローマ 12:18 せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
パウロは、キリスト者を迫害する人々に対して、どのように生きていくべきかをかたります。特に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と教えています。祝福より呪うほうが気分的にスカッとしますし、自分の心も安定するように思います。しかしそうでしょうか。「呪い」はさらなる「呪い」を生むだけです。「祝福を祈ること」は簡単なようで一番難しいことです。しかし、そこからしか平和ということばはみえてこないように思います。
8月15日は、いろいろな呼び方があります。新聞ニュースでは「終戦記念日」という呼び方をしています。ある人たちは「敗戦記念日」といいます。また「戦没者祈念日」という言い方もあります。しかし、どの呼び方であっても「戦争」から切り離せません。「終戦記念日」という言い方は、戦争が終わって平和な社会になったということに重きをおいているのでしょう。「敗戦記念日」というのは過去の戦争の過ちを悔改め、二度と戦争の罪を繰り返さないという思いがあります。キリスト教会はどうでしょうか。ある教団の8月15日の祈りの中で「日本の新生記念日」という言葉を用いていました。戦争を放棄するという新しい国を選択した日であり、新しく日本が生まれた日という思いです。今日の日をどこの視点でとらえればいいでしょうか。私たちが聞く主のみ言葉は「平和を創り出す者となれ」です。新しく主のみ言葉によって立つものとなりたいと願います。
パウロの「せめてあなたながたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉が妙に心に響きます。すべての人と平和に暮らすことができるのは、相手を責めることで成り立つのでなく、なお配慮を必要とすることなのでしょう。「呪うのではなく、祝福を祈るのです」という言葉から、自分が何をなすべきか考えなければなりません。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
最近のコメント