マタイ 18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
イエス様にペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と聞くことから、今日の話がはじまります。ペトロは永遠に赦すことなど考えてもみませんでした。ところがイエス様は「七の七十倍まで」と言われました。これは完全数ですから永遠にという意味です。しかも条件も何もつけておられません。その後「仲間を赦さない家来」のたとえをされたのです。まず自分が赦されていることを知ることを教えられました。
徳山教会には正面に祠があり、そこには何もなかったのでイエス像を設置しました。あるとき長女が、そのイエス像に石をなげて壊してしまいました。それを聞いたときは怒りがこみ上げてきました。せっかく大切にしてきたのにという思いと、イエス像にむかって石を投げるとは何事だとカッときたのです。自分の心が納まらない時はいつも、礼拝堂で祈ることにしていますので、心を鎮めようと祈っていました。すると娘たちがやってきました。祈りを終えて振り返ったとき、長女が泣きそうな顔をして立っていました。いつもならすぐに叱るのですが、祈りのあとだったので、神様がちょっとまてと言われたように感じました。なぜだか優しく「どうして石を投げたの」と聞けたのです。すると、「トカゲがいて、それがイエス様の方へ行こうとしていたので石を投げた。それが間違ってあたってしまった」のだそうです。それで泣きそうな顔をしていたのです。故意にやったことではない。きっとイエス様への思いが違う形になってしまったのでしょう。それを知ってすでに悔い改めたのだと思います。なんだかそれで充分だと思いました。新しいイエス像を買って設置すればすむことですから。その後、イエス様のことをいろいろと話ができました。ろ親子でそのような会話ができたことに感謝しました。
イエス様は「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言われました。人を赦せないとき、私たちはどうすればよいでしょうか。人を赦せないとき、十字架上のイエス様を思い出すことです。誰の赦しのために十字架で苦しまれたのかを知るためです。私たちは大きな罪をイエス様の十字架で赦していただいている。そこから始めることです。
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