仮設に住んでいた母が、南阿蘇の復興住宅に入居できました。皆さんのお支えに感謝します。熊本地震で家は全壊となり、所有していた物は全てなくなりました。いつかは整理しなければいけないので、自分としてはスッキリしました。私の本も段ボール50箱が整理できました。本を手放すのは勇気がいりますから。
復興住宅への引っ越しがはじまり、何時の間にこんなに荷物が増えたのかと驚きました。これから先は人生のまとめの時間。天国には何も持っていけないので必要最小限の物さえあればいいねと話していました。ところが、あっという間に所有が増えていったそうです。あれも必要、これも欲しいという思いがそうなったのでしょう。
ある本にこのように書いてありました。「死ぬときはそれまで所有していたものを何一つ持っていくことはできない。だから所有と言うのは、最後にギブアップしなければならないように最初からなっている」。さらに続けて「より豊かに所有することを最高価値にして生きている限りは、最後は不幸のドン底で死ななくてはならない」と。私とは私が持っている物であるという考えで生きていると、最後に何も持てなくなるということは自分の価値がゼロで死んでいかねばならないということでしょうか。私たちは一体何を所有しているのでしょう。私とは私が持っている地位、名誉、財産だけだとしたら人生の最後は苦しむ事になるのでしょう。
聖書は私たちが持っているのは「神様」であると言います。具体的言えば何になるでしょうか。それは「神様のみ言葉」だと言います。私たちが所有しているのはイエス様のみ言葉であり、それは自分の死が近づくにつれて平安を与えてくれるものです。「あなたは今日私と一緒にパラダイスにいるであろう」。素晴らしい恵みの言葉です。