マタイ 22:21 イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
聖火曜日は「論争の日」と呼ばれています。イエス様はエルサレムに入城後、神殿の境内で当時の宗教指導者たちと論争をされます。そのことに由来して、聖火曜日は「論争の日」と呼ばれるようになりました。イエス様はこれら論争の中で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という有名な言葉を語られました。口語訳では「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」となっています。
さて、イエス様のもとには、ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派そして律法の専門家と、次々に現れ論争をしかけます。しかし、ことごとく論争に敗れてしまいます。宗教指導者たちが次々に論破されていく様子に、ファリサイ派とサドカイ派は協力し、イエス様に言葉巧みに近づき、陥れるための質問をするのです。それがローマ皇帝への税金納入の問題でした。皇帝に税を納めるといえば偶像崇拝にあたり、神様を裏切ることになります。納めないとなれば国家反逆罪になるというのです。ところがイエス様の答えはきわめてシンプルなものでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」です。あまりにもシンプル過ぎて、イエス様が言われたことの解釈はたくさんあります。そのなかで自分の答えを見つけねばなりません。
私たちの生活は、どんなことに支えられているのか詳しく考えてもみませんでした。ある時、それを考えるいいチャンスをいただきました、二時間の停電があったのです。停電といえば、台風十九号で経験済みです。その経験から二時間くらい大丈夫と思っていました。心配なのは冷蔵庫くらいと。ところがその時は夏だったのに、今回は冬ということを忘れていたのです。電気がとまればすべての暖房器具が使用できなくなるのです。いまや電気を使わない暖房器具は少ないのです。ストーブにだってファンがついているからです。電気というものは隠れたところで、しかも大切なところで働いていることがわかりました。私たちの生活は何によって本当は支えられているのか。それは神様の恵によってだと言えます。そのことに気がつきたいものです。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」この言葉を考える時の基本は、私たちの生活はいったいどなたに支えられているのかです。政治や経済によって支えられているのはもちろんですが、それ以上に与えられた命を支えていてくださるのはどなたかということです。それは、神様です。その神様の支えの中心に、十字架によるあがないがあります。罪赦されて生きて行くということです。「神のものは神に返しなさい」。私たちは今日、何を神様に返すのかを考えてみたいと思います。
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