1コリント 14:9 あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
使徒パウロは「異言」というものについての注意を与えています。異言とは聖霊降臨のときの「ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)というところに起源があります。しかし、「霊が語らせるままに」とありますから、ただの外国語というわけではないようです。パウロも異言を霊的な言葉としてうけとっており、語ることを禁じるより、それを解釈する人が必要と忠告しています。何を語っているかわかることが大切です。
あるとき、北ドイツにあるオストフリースランドの教会の招きで、東日本震災救援活動報告にいってきました。北ドイツの小さな村にある3つの教会から400万近い支援金をいただきました。みな農家の方々で、その働きの中から必死で献金をしてくださったのです。感謝と報告は大切なことでした。ただ、ドイツ語が話せない私がどこまで被災地の救援活動をお伝えできるか心配でした。しかし、言葉よりも心が伝わったように思います。400万を何に使ったかではなく、この支援金をとおして私たち日本のルーテル教会救援がどのように用いてきたかを話しました。それは一人一人を大切にして、その出会いをとおして確実に支援を届けたことが伝わったようです。帰りがけにみな無言で握手して目で語りかけてくださいました。
私たちは、「何を話しているか」を人に分かってもらわねばなりません。キリストのみ言葉をどうやったら分かりやすく伝えることができるでしょうか。それは自分の言葉の点検を必要とします。この大江教会でも言葉の点検をしていきましょう。自分だけにわかる言葉をつかうのでなく、お互いに理解できる言葉、コミュニケーションを大切にしなければなりません。そのためには相手のことをまず考え話をきくことからです。
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