エフェソ 1:10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
私とキリスト教の初めての出会いは、カトリック系の幼稚園に入園したことからでした。親がとくに意識したのではなく、近くにあった幼稚園に入れられたものと思います。しかし、その幼稚園との出会いが、いまを築いたと思われます。本当に楽しい幼稚園生活でした。しかも、年に1回ある健軍教会でのミサで、十字架に磔にされたイエス様との出会いが、牧師への道を決定づけたと言えます。それくらい衝撃的でした。その出会いが、時が満ちて高校の時に花開いたのです。
パウロは、キリストの「血によって贖われ、罪を赦された」ことを、神様の恵みによると言います。この恵みが隠されたものではなく、いまや公に公然と語られるようになったというのです。それは神様の時が満ちたからです。神様の時が満ちることで救いが完成され、すべてのものはキリストのもとに一つにまとめられると教えました。中心はキリストにあるというのです。神様の計画がそこにあるのです。
九州の山奥に過疎化のために若者が一人もいなくなった村があります。この村が若者に帰ってきてくれるために努力した話を聞きました。きっと涙ぐましい努力があったと想像しますが、その逆でたいへん楽しい努力だったそうです。まず、村のお年寄りは「楽しさ」をテーマとしました。とにかく楽しい村にしようとしたのです。いろいろな計画がもちあがり、何が一番楽しいかを考えました。結果的には自分たちが一番楽しいことがいいとなったのです。そこでみんなで梅の木を植えまして、梅製品を造り始めたのです。なんでそれが楽しいのかといえば、その梅製品の販売利益でみんなでハワイ旅行をしようときめたのです。そして、その旅行の楽しさや、梅造りの楽しさを新聞にして、村から出ていった若者に毎月送り届けたというのです。「いまこれが楽しい」「みんなでいったハワイ旅行は楽しかった」「村のこれがいま楽しい」などなど、楽しいことを企画してその楽しさを届けたのです。数年後その村がどうなったかおわかりでしょう。いまや若者とお年寄りのバランスのいい村となったのです。この話を聞いて、「これからの大江教会の宣教はこれだ」と直感しました。私の宣教方策はまず楽しさからです。楽しさのなかで福音を分かち合いたい。
私たちの人生で起こっている神様の出来事は、秘められた計画かもしれません。どのような出会いがあり、いつ信仰の種がまかれているかわかりません。しかし、いつか時が満ちるとき芽をだし、実を結ぶのです。パウロは「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」と教えています。私たちの人生は、キリストのもとにひとつにまとめられる計画の中で生きています。救いへの道がすでに私たちの前に用意されているのです。
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