久しぶりの東京会議でした。事務局で働いていた時は毎日が会議でしたが、現場に戻ってみると会議が大幅になくなりました。さらに東京へ出ていく会議はもっと少なくなり、ルーテル教会主催の会議はなくなりました。
「会議がなくなって寂しいでしょう」という言葉を頂きます。正直に言えば寂しくないことはありません。会議に出ているとルーテル教会の中枢にいて、いま教会の大切なことを決定しているという自負がありました。それが自分でも心地よいものでした。しかし、現場に戻ってみると会議がなくても本教会も自分も大丈夫なことに気がつきました。自分たちが教会の中枢にいると考えていた傲慢さにも気がつきました。ある意味それは誘惑だったとも思います。本来の自分に与えられたミッションがわからなくなっていました。平気で「地方にある教会の整理統合、閉鎖」などと机の上で議論していたのですから。それが当たり前のことのように思えていたのです。
あの時を振り返ってみると「東京での会議で聖霊を感じたことはなかったな」と思いました。そのような視点で会議を考えたこともありませんでした。会議の中に聖霊の働きはあるか。それを求めているか。今ここに働く聖霊の姿を共有できていたかと。会議を離れて初めて考えたことでした。会議を主催しながらつねに虚しさを感じていたことを思い出したのです。神学校でお世話になった先生が「いまあなたに一番似合わない仕事しているから、早く現場に戻りなさい」と言われたことがありました。
そんな時にいきなり現場に引き戻されたのが東日本大震災の救援活動でした。その時に聖霊を感じました。その働きがよく見えました。いまここに生きて働く聖霊の姿でしたあの五旬節の日に弟子たちが感じたあの炎のような舌を感じたのです。