「なんのためにあるの」と思うことがあります。また「誰のために」と思うことも。どの立場に立つかによって行いが違ってきます。どちらが正しいのかと考え込むこともあります。どちらにも正しさはあるなと思います。
あるドーナツ屋さんの話しです。その店は全国チェーン店で、決まりごとの一つに「閉店時にすべての商品を並べて置く」と言うのがあります。たしか30種類以上のドーナツがありますが、閉店時に商品を一つも切らせてはいけない規則です。閉店後に残ったドーナツはすべて廃棄処分になるそうです。食品管理が厳しい現代では余った物はアルバイトが持って帰ることは出来ない。何と「もったいない」と考えるのは普通だと思います。すべて売り切れるように最後まで作らなきゃいいのにと考えてしまいます。
この場合「何のために」と聞いてみました。答えは「最後のお客さんが自由に選択できるため」と言う事でした。これは何のためではなく「誰のため」の問題だったのです。そうなると少し考えがかわりました。選択できないではなく、自由に選択できるサービスなのです。しかしそのためにドーナツは廃棄処分されるものが多くなる。この場合どちらも間違ってはいないということでしょうか。「何のために」の立ち位置が違うだけなのかなと思いました。もったいないという考えだけに立ってしまえば分からないこともあるのだと考えさせられました。どちらが良いとはその人の選択次第です。
私たちは自分の考えが正しいと思って発言します。ただ困るのは自分の意見「のみ」が正しいという立場に立った時です。人それぞれ自分の立場がある。それを認めてこそ話し合いは出来るのです。そうでないと議論は「勝った負けた」になります。教会ではそんな議論は必要でしょうか。神様はそれをよしとされるかなと考えてみました。