「自分はなんでも持っている」と言う人がいました。何でも持っているなら幸せですねと答えました。すると、物はなんでも持っているし、これ以上いらない。しかし、本当に必要な物を持っているのか疑問だというのです。特に何不自由なく生活できる財産はあるけれど、さみしいという相談でした。イエス様は「受けるより与える者は幸い」と教えてくださいました。たくさんの物を、人々に分け与えた時、はじめて本当に必要な物が見つかるかもしれません。全てを与えつくして何が残るか。残ったものが、神様から与えられた確かな恵みだと言えます。
パウロはコリントの人々に、「最高の道を教えます」と言っています。その冒頭に「愛がなければ一切は無に等しい」というのです。愛がなければ一切は空しく、何の価値もなく、無益であるとまで言っています。しかしその「愛」は「神の愛」であることが引き続き語られていきます。私たちは「愛」と言うとき、自分の中にそれを見つけようとします。しかし、私たちの中に見つけようとしてもみつかりません。「愛」は神様のもの。神様か毎日与えられるものだからです。その愛を自分の中に留めておくことのむずかしさを思います。
パウロは「愛がなければ、無に等しい」と教えています。どんなに賜物があっても、才能があっても、大切なことは中心に何があるかです。パウロは「愛」といいます。しかしこの「愛」は神様の愛であるアガペーです。すべては神様が中心になければ無に等しいというのです。
先週阿久根教会で伝道部会を行いました。その時阿久根教会の宣教はすべて「愛」ですと言われました。愛がなければ空しいと。その愛って何かなと考えています。