先月あるエッセイで「とんかつ屋の悲劇」という文を読みました。鹿児島に行くたび、とんかつを食べていた私ですので、ちょっと興味をもちました。内容は老舗のとんかつ屋さんが次々に廃業している。その原因は何かというものでした。これを読みながらもしかしてこれって教会のこと?と思わされました。なぜ老舗のとんかつ屋さんが廃業していくのか。ちょっと中心部分を抜粋します。
「昔ながらの商店街に、昔ながらの商店があり、高齢の商店主が常連客を相手に商売を続ける。自分たちの体が動くうちは、小遣い稼ぎ程度で良いからと店を続ける。それで10年後、その店はあるのだろうか。次々と閉店していき、老朽化した店舗が並ぶ商店街に客は来るのだろうか。そう考えると、商店街を救うのであれば、商店主が後継者が見つかるような経営をしようと努力するのと同時に、商店街組合や行政なども入って、身内でなくとも店舗の後継者を受け入れていかねばいけない。(中略)「自分の代だけ、安泰であれば良い」という考えではなく、次世代の生活の確保が可能かどうか、それこそが事業の継続に最も重要な点だ。そのことは、商店街問題や、さらには地域活性化問題にも繋がる。「とんかつ屋の悲劇」は、一業種の経営問題だけではなく、実は非常に大きな問題を提起しているといえる。」
老舗のとんかつ屋を老舗のルーテル教会に変えてみても同じことがいえるかなと思います。大江教会も後継者の育成が急務です。この数年はそこに力を入れてきました。それは終わりでなくさらに後継者の育成をしていかねばなりません。
「自分の代だけ、安泰であればよい」。そのような考えではなく、20年後に持続可能なルーテル教会であり続けることが時期宣教方策のテーマとなっているようです。