マタイ 11:19 人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
東京教会の関野牧師がフェイスブックに次のように書いていました。「『教会』って、普通の人にとってめちゃくちゃ入りにくい場所なんだと思う。看板の出ていない高級レストラン、一見様お断りのような雰囲気。教会の敷居はきっと同じだけ、もしくはそれ以上に高いかもしれない」。たぶんそうだと思います。どうしてそんなイメージができあがったのか。きっと聖人君子の集まりというイメージをどこかで植えつけてきたのではないでしょうか。そのイメージを保ちつつ、壊していくことが私の宣教の一歩だと思っています。
洗礼者ヨハネは、捕えられた牢屋の中でイエス様の業と働きを聞きました。そこでイエス様のもとに弟子を遣わして「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねています。人々の言葉や噂に惑わされず、自分できちんと確かめようとしたのです。なぜなら群衆は、イエス様のことも、洗礼者ヨハネことも人々の勝手な噂に惑わされていたからです。洗礼者ヨハネは悪霊に取りつかれた者、イエス様は大食漢で大酒のみと言われていたようです。誰かがそのようなイメージを付けたのでしょう。しかし、そのようなイメージに惑わされてはいけないのです。そのためには自分で御言葉を確かめることです。
CMプランナーの佐藤氏が次のようなことを書いていました。「たとえば店頭でインスタントラーメン売り場か、ビール売り場に行ってみてください。パッと見て、もうすでに大体買うラーメン、買うビールはすでに決まっています。ラーメンやビールだと選択にそんな時間をかけていません。つまり、みんなが手に取る商品は、ちょっと光り輝いているように見えます。すでに『見えない衣』をきているのです。その『見えない衣』をつくることがCMの役割なのです」。手に取り、味わう前にすでに商品は選ばれている。衝撃的な事実なのですが、教会もまたそのような「見えない衣」を着せられているのかもしれません。ルーテル教会はどうでしょうか。どのような「みえない衣」を着せられているでしょうか。
イエス様は「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言われました。「みえない衣」ではなく、「みえる衣」に従って判断しなさいということでしょう。洗礼者ヨハネが自分で確かめたように、人や宣伝に惑わされずに、しっかりイエス様のみ言葉によって確認していくことだと言えます。私たちの人生は、み言葉という生きる基準をもっているのです。
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