2コリント 5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
本日は「全聖徒の日」です。教会の暦ではイースター(復活祭)と同じく古い習慣といわれます。教派によっては召天者記念日、永眠者記念日と呼ばれています。10世紀末頃、教会では、殉教者・聖人を覚える日を11月1日、一般信徒の召天記念日を11月2日と決めていました。私たちのルーテル教会では、11月1日を「全聖徒の日」とし、天に召された全ての方々を記念する礼拝が守られています。いわゆる教会のお盆です。そこに大勢の人たちがやってくるので、ルターは前日にあたる10月31日、教会の扉に「95箇条の提題」を貼りつけたといわれています。
パウロは、信仰によって生きるというテーマで、死の向こう側にある住みかのことを語ります。「住みか」とは直訳すれば「家」、「幕屋」は「テント」のことで仮の住まいのことです。この世の生活が終わっても神様によって用意されている天の住みかがあり、それは永遠のものであるというのです。昨日は「全聖徒の日」でした。教会では召天者を覚えて祈りました。
落語家の圓楽さんが天に召されたときのことです。テレビでもニュースになっていましたが、その中である芸人さんの話が印象にのこりました。彼は「死というものは寂しいですね。天国にその人だけでなく、その人の芸も持って行ってしまう。せめて芸だけは残ってくれないものか」と。圓楽さんの芸は圓楽さんしかできない。それが天国に一緒にいってしまった。天国におられるとわかっていても寂しいと。
パウロは「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています」と教えています。私たちも身近な人の死に出会うとき、寂しいと思います。もうこの世では会うことができないという寂しさもあります。その人しか生きることのできない人生まで天国にいってしまうからなのでしょう。しかし、パウロは「天にある永遠の住みか」にて再び会えることを教えています。天国に持っていくことのできる、私だけの生き方を信仰もって生きぬきたいと思います。
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