マタイ 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。ある時の伝道セミナーでわかったことは、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということでした。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。二十人くらいの家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。百人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。教会がイエスさまのみ言葉に学び、ビジョンをもったとき、本当の宣教する教会になっていくのでしょう。
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。一人では負いきれない重荷も、イエス様がおなじ軛を負って共に歩んでくださるというのです。また、「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。安らぎを得るためにイエス様に「学びなさい」と言われています。
脳科学者の本に次のようなことがかいてありました。「多くの親は『少しくらい勉強ができなくても、他人を思いやれる優しい子になりなさい』と言う。でも実は、思いやりのある人間を育てるためには、学力を身につけさせなければならない」と。ただし学力イコール成績ではありません。論理的思考を身につけ、優しさや思いやりの心を育てるためには学力が必要というのです。相手に優しくする、相手の気持ちを思いやるためには、広い意味での教養が必要なのです。人の心を思いやるには学びが必要なのです。解剖学者の養老孟司さんは「教養とは他人の心がわかることである」と言っています。学び続けて論理的思考を身につけることが、優しさや思いやりを生む教養となっていくのです。
イエス様は「わたしに学びなさい」と言われました。イエス様に学ぶことによって、人はお互いに愛し合い、赦し合い、人と人の関係のなかで神様の救いが与えられていきます。イエス様に学ぶというのは、聖書を読み祈ることです。つねに聖書の中から神様の御言葉を学ぶ時、人は他人にかかわる教養を身につけていくのだと思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>
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