ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。
ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。つながりが基準なのです。。
イスラム教では、人間の行為を五つに分けています。1、礼拝などのように必ずやらなければならない行為。2、親孝行などのようにやったほうが望ましい行為。3、やってもやらなくてもいい行為。4、喫煙などのようにやらないほうがいい行為。5、絶対にやってはいけない行為。この分け方は実は、1は必要善、2不必要善、4必要悪、5不必要悪となります。それでは3は善でも悪でもないとなります。これを基準に人間の行為を規定していくというのです。つまり、イスラム教もユダヤ教も善・悪・必要・不必要の両方の基準をきちんと持った宗教なのです。
私たちはキリストの御言葉という基準を持っています。ただしここに必要。不必要という考え方があまりありません。私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>