ヨハネ 19:6 あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見出せない。
あるとき、子どもたちに質問をしました。「イエス様はどうして殺されねばならなかったのでしょう」と。わりと真剣に考えてでた結論は「何か悪いことをしたのじゃない」でした。誰に対して悪いことをしたのでしょうか。イエス様の周辺にいたファリサイ派や律法学者だったならば、何が悪かったかよく理解できたことでしょう。しかし、ピラトでさえイエス様の中に罪をみいだせないでいたのです。
ピラトはイエス様を尋問しますが、何が罪なのか理解できませでした。ですからイエス様を助け出そうとしています。しかし人々の殺意はぬぐえそうもありませんでした。ピラトは無罪のイエス様を処刑することは避けたかったのです。しかし群衆「十字架につけろ」の声に負けてしまったのです。
幼稚園の子どもが雪をみて教えてくれました。「雪っていうのは、埃がないと雪にならんのよ。埃に雪の結晶がくっついて降ってくるんよ」と。そういえば雪を食べると埃の味がします。始めて教えられました。雪がやんだ日の青空が美しいのは、雪が空中の埃を全部とってくれているからですね。あの雪の日の青空が私は大好きです。私たちの信仰もまた、あの雪の日の青空のごとく澄み切っていたいものです。しかし、なかなかそうはいきません。澄み切ったと思った瞬間に、また埃まみれになってしまいます。ぬぐってもまた埃まみれになります。神様から離れている私たちの罪の現実がそうさせるのです。白い雪をみながら、私たちの罪も白い雪が包んでくれないかなと思います。いやいや、本当は毎日白い雪に包まれているのかもしれません。
雪の中心に埃がある出来事が、十字架の奇跡だと言えます。聖書をよく読んでみると、神様はイエス様を十字架につけるために、すべての舞台設定をされたのだといえます。それは私たちを罪から救うためでした。十字架の愛で包み込むためでした。イエス様が何か悪いことをしたのではないか、と思わせながら実は神様の意志を、救いを全うされたのでした。人間はそのことに気がつかなかったのです。
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