ヨハネ 8:15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
自分をゆっくり省みてみます。私は何人の人を裁いているでしょうか。いや、今日一日だけでも何人の人を裁いているだろうか。その数は測り知れません。そんな時、人から見れば「あなたはいつ神様になったの」と言われてもしかたありません。「人を裁く」とはいったい何でしょうか。その時の自分は神様のまえでいったい何者でしょうか。あたかも神様の代理人のように振る舞っている自分が恥ずかしくなってきます。
イエス様の有名な御言葉「わたしは世の光である」に始まる問答に一節です。「肉に従って裁く」という言葉に心を突かれる思いです。いつの間にか自分の罪は置いて、人の罪ばかりをあげつらうファリサイ派の人々に対して言われました。「裁かない」といわれている御言葉に強さと平安をいただく思いです。
司法通訳官として働かれた方の講演を聞きました。その中で、東アジアからの不法滞在労働者として法廷に立った女性の話をされました。法廷では本人確定のための立証尋問がおこなわれます。名前、国籍、と聞かれ、職業を聞かれた時、彼女は「売春婦です」と答えたそうです。裁判官は調書に「ホステス」と書かれてあったので聞きなおしました。すると何度も言わせないでと「売春婦」と答えたそうです。次に宗教を聞かれたとき「カトリック」と答えました。裁判官は「あなたはクリスチャンで神を信じているのに、いまの職業に関して恥ずかしくないのですか」と聞きました。彼女は「私はウエスト(腰)から上は神様に仕え、ウエストから下は家族に仕えています」と答えました。神様はどんな人生を与えておられるか、神様しかわかりません。きっぱりと「神様と家族に仕えている」と言ったその女性の言葉の重さに、私の心にも刻まれた言葉でした。決してその彼女を裁くことなどできない自分を見出しました。
イエス様は「わたしは誰をも裁かない」といわれました。この御言葉にショックをうけます。イエス様ですら裁かれないのに、この私が兄弟姉妹を裁いているのですから。私たちは人を裁くことより、イエス様の御言葉を求めたいと思います。それぞれが与えられているイエス様の御言葉によって、赦しあい、慰めあいたいと望みます。裁きは神様がされることですから、私たちは愛し合うことしかないのです。
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