マルコ 8:17 まだ、わからないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
私たちは自分たちの言葉や行いを「批判」されると、反撃するか、落ち込むか、受け流すか。それぞれに何らかの反応をします。その時に、批判されている内容にもう一度目をとめて考えることをあまりしません。まずそれができれば、反応の仕方も変わってくると思います。批判されている内容を、自分のことではなく批判している側に問題ありとすり替えて考えることもあります。それでもまずは冷静になって事実を見ることが一番最初にすることです。
イエス様の言葉に対して、弟子たちが方向違いの考えをしていたときに言われたことばです。イエス様が何を言おうとされているかに集中できず、イエス様の言葉を、まったく関係のないことがら(自分たちの勝手な思い・受け取りやすい考え方)にすりかえてしまうことへの忠告だと言えます。弟子たちは、自分がわかりやすいことにすり替えて聞いています。このすり替えがおこると、イエス様の本来のみ言葉の意味も分からなくなるのです。
大阪でお世話になった先生が天に召されました。かたくなな先生でした。脳梗塞という病のため、言語障がいが残りました。牧師として話す言葉を奪われたのです。人の名前や日常会話の大部分が奪われました。それでも、なんとか言葉にしたい、伝えたいという気持ちが全身にあふれ、最後まで言葉を発することの闘いの日々でした。闘病生活での出来事を奥様が教えてくださいました。「主人は言葉を奪われてしまいました。しかし、いくつか残された言葉もあります。祈りです。みんなが主の祈りをいのるとき、初めから終わりまで『主よ、信じます』を繰り返していました。何度も何度も繰り返していました」と。先生には、この祈りを通して最後まで教えられました。「主よ、信じます」という信仰の言葉が残されたこと。それを通して牧師とは最後までどうあるべきかを教えられたのです。牧師は病に倒れてもやっぱり牧師です。それが召命ということです。主の祈りにあわせて「私は信じます」という応答は、牧師が伝えるべき福音の全てを語っています。これはかたくなではなく、真実なのでしょう。
教会に対する様々な厳しい意見をいただくことがあります。無茶なご意見もありますが、それでもその人が何かを思っている。教会ならと期待があるということかもしれません。自分のほうに都合がいいようにして、逆に非難するまえにちょっと立ち止まって考えることも大切です。「心がかたくなになっているのか」というイエス様の声が聞こえてきます。教会はかたくなになってはいけないと思います。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>