マタイ 23:3 彼らが言うことは、すべて行ない、また守りなさい。しかし、彼らの行ないは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
礼拝堂で毎朝祈っていますと、聖霊を感じることがあります。心が安定して気持ちよくなってきます。そして不思議なことに出会うことがあります。先週の水曜日に祈っていたときのことです。礼拝堂の窓ガラスをトントンと叩く音が聞こえてきました。一瞬ドキッとしました。誰だろうとみてみると、なんと野鳥が窓を叩いていたのです。きっと野鳥も祈っていたのでしょう。
一回だけの偶然かなと思って窓のところへ行ってみますと、毎日来ている様子がわかりました。皆さんも見て下さい。礼拝堂の窓です。汚れているのではなく、野鳥が毎朝つついたあとなのです。もしかすると何かを訴えているのかもしれません。童話の話みたいですが、この教会がここに存在することの素晴らしさを教えられたようです。毎日の祈りこそです。
イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々の教えと行いについて弟子たちに注意を促されました。ファリサイ派の人たちが民衆に律法を教え、具体的に生活の中でどのように守るべきかを指導してきたことは認めておられます。しかし、問題はその教えではなく、彼らが言うだけで実行しないことだと言われます。いい事を人に押しつけるだけで、人を助けようとしないことを問題とされました。「言うだけ人間」になってはいけないと戒められ、本来の働きをしていないことを指摘されたのです。
大江教会に赴任して変わったことは、パソコンの前に座る時間が少なくなったということです。また毎日処理するメールの数が10分の1になりました。事務局時代は毎日やってくる多量のメールを処理することが仕事だったように思えます。対外的な関係の仕事が多かったということでしょうか。しかし、このメールのやり取りは気を付けないといけません。仕事をした気になるからです。いま振り返ると、パソコンの前に座ってメールを処理し、文書をまとめるとそれで仕事が完結したように思っていました。いま、パソコンからはなれ足で歩きまわっていると、人と人の関係の大切さを思います。今度は歩き回ることだけが仕事にならないようにしなければなりません。出かけて行ってそこで人に会う。祈る。これはイエス様をそこにお連れするということだと思っています。
その人の生き方が信仰を語ります。祈ってないキリスト者、聖書を読んでないキリスト者、礼拝を大切にしないキリスト者はすぐにわかります。その人がどんなことをいっても、人は動かされないのです。そこにイエス様がおられないからです。信仰の言葉は、実行されてはじめて人を動かす力になるのだといえます。やった気になってはいないか。それを点検する日でありたいものです。