ルカ 10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。
ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。
たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。
イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。