ルカ 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。
本日の聖書をみてみましょう。テーマとなっているのは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。前半部分では、「家族だけでなく、自分の命までも憎まないなら」とでてきます。これは憎むというよりも、放棄するとか脇におくという意味です。文字通りによむと憎らしく思うという意味にとれますが、そうではありません。イエス様の弟子の第一の関心は家族や自分の命ではなく、もっぱらイエス様にあるべきだといわれるのです。また、後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。
人に何かを教えるということは大変なことです。ある本に「人から50習いたければ、相手に50与えねばならない」という言葉を見つけました。一方的に教えるのではなく、相手からも教えて頂こうという姿勢がなければ講演は成功しないと考えています。しかし何を学べばいいのでしょうか。講演の依頼を受けるときは「喜んで」と受けます。期日が迫ってくると「なんで引き受けた」と悔やみ、最後の一週間は「逃げ出してしまいたい」となります。そして前日の真夜中になって「あきらめる」のです。「神様にお任せしよう」これがでてくれば大丈夫です。すべては神様の計らいの中で全力を尽くすしかないのです。そう思いながら、「何を話すか」が頭からはなれません。しかしすべてを委ねる時に話すことは出てきます。
答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは「あきらめる」ことです。つまり、神様にすべてまかせてしまうことにほかならないのです。イエス様に従うものは、すべてを捨てる。しかし実際に捨てるのは、そのものではなく、そのものに対する執着を捨てるのです。なぜなら、イエス様以上に私たちが執着をもってはならないからです。すべてのことはイエス様が与えてくださる。そのことに気がつくために、一切を放棄してまず座るのです。