マタイ 7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
ある本でつぎのような話を目にしました。「ある日、若い女性が仕事を終え、家に帰ろうと車を運転していました。ことろが、ちょっとした不注意で、前の車に追突してしまったのでした。この車はまだ購入して3日目の新車だったのです。彼女は泣いてしまいました。この事故をどのように夫へ報告すればよいのか・・。ぶつけられた人は彼女に同情しましたが、お互いの運転免許の番号と登録番号を書かなければなりません。そこで彼女は車検証をだそうと大きな封筒を開けました。すると中から一枚の紙が出て来ました。そこには大きな、男らしい字で次のように書いてありました。『もし、事故にあっても・・・僕が愛しているのは車ではなく、君だということを忘れないで』と書かれてありました」。大切なことは何かを見失ったとき、人は間違いを犯します。それが始めのうちはまだ修正可能ですが、最後には決定的な別れとなることもあります。始めの一歩である大切なことは、「相手を思いやる」ことです。
イエス様は「人を裁くな」というテーマで3つの話をされました。イエス様が教えられた「人を裁くな」ということは、律法に対する新しい解釈でもあります。律法の働きは、つねに人が人を正しく裁くことです。イエス様は、人が裁いてはならないと言われす。なぜなら、人を裁くことができるは神様の権限でだからです。人が人を裁くときには、すでに人間関係が壊れていることを意味しています。
精神分析医の言葉に「我々は他者の間違った行動を責め、良い行動は認めようとしないものである」があります。これを分析してみると、他者を否定的に見れば、優越感をもてるからだと言えます。しかし、精神分析医は「人が自分自身を健全で現実的な眼差しで見つめるようになれば、否定的な記憶は薄れる」と言います。まず自分を見ることから始めなければ、他者を認めることはできません。これができないから話し合いによって問題解決できないのです。よりよい解決案を見つけるには、まず相手を認めることからです。そこではじめて人と人との関係ができます。
イエス様は「なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われました。自分を知ることの難しさを教えておられます。相手を自分の目で見る前に、自分自身を神様の目で見ることが求められます。それができれば、はじめて相手の目にあるおが屑の意味もわかります。お互いにそれができれば、何か問題が起こったときに解決する道を与えられるはずです。
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