新型コロナウイルス感染防止で自粛し、牧師室にいる時間が多いです。飛び回って、人と出会いて、つながって、宣教するのが大好きな私には、この時間をどうしたものかと思っていました。しかし、考え方を変えて今だからできることはないかを探しています。「できない」ではなく「できる」ことを探し、いくつか始めました。
まず礼拝堂での朝晩の祈り、納骨室での祈りです。これは教会に住んでいるからできる恵みです。次に講壇用聖書の通読を始めました。牧師だけでなく皆さんにもご参加いただきたいですが、コロナ終息後の礼拝再開時からお願いします。納骨室の十字架を磨いています。教会中の窓を開け外の風を入れる。正午の主の祈り。午後3時に牧師室バルコニーから街へ祝福の祈り。ドライブスルー祝福と祈り。礼拝の準備。さらに「何か楽しいことはないか」を考える時間。結構楽しくやっています。
ちょっと一休みの時間をつくり、牧師室でゆっくり緑茶を飲んでいます。ティーバックの袋に中学生の句がありました。「母の顔 私が刻んだ 皴もある」。この句で少し考えてみました。作者は母親に苦労をかけた。それがわかっている。母の皴にそれを見つけることができ感謝がある。ほのぼのとした幸せを感じました。この句を読んで母も嬉しかったでしょう。さて、イエス様の十字架に何を見つけるかと思いました。その傷跡に自分の罪や弱さ、不安や、不信仰を見ることができるか。それを見て心に刻むことができる人は幸せだと思います。
牧師は毎日朝夕に皆さんを覚えて祈っています。どうぞ、このような状況の中、ご自身の健康を保ち、無理をせずにいてください。教会が再開し皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。