ルカ 4:38~39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
牧師の仕事のひとつに「間に合う」というのがあります。人の死に立ち会う時ほどそれを考えます。しかし、どうしても間に合うことができないこともあります。そんなときは、間に合う牧師にその働きを委ねるという道があります。ある方の臨終に間に合わなかったことがあります。そこには後輩の牧師がいてくださいました。牧師も一人で働いているわけではありません。神様のチームで働いているのだと実感しました。そして、そこにおられた兄弟姉妹も全員が神様のチームだと教えてくださいました。わたしたちのチームは、神様の働きのなかで「間に合う」ということを大切にしたいと思っています。実は「間に合う」ということは愛です。痛みでも、苦しみでも、そこに間に合わなければ愛ではないのです。
イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。すぐにがあるから、間に合ったといえます。
ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。「間に合うこと」は今の状況の中で大変なことなのでしょう。簡単に「なぜ」ということはできますが、現場の最前線におられる方の大変さをどれだけ知っているかを思い知らされます。「間に合う」ことを自分たちで何ができるのかを考えいます。教会もいったいなにができるのか。しかしたいせつなことは「間に合う」ことだと思います。。
イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」です。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う」のです。私たちも「間に合う」とはどういうことかを考えてみましょう。大切なことは何に対して間に合うかです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>