エフェソ 6:18~19 わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
ヨハネ福音書には「言葉に命があった」としるされています。最近この「言葉」について話したり、考えたりすることが多くなりました。果たしてメールやラインという手段で用いられている言葉にも命があるのでしょうか。コミュニケーションツールといいますが、ラインのやり取りをみていると、言葉というより文字という記号に見えてきます。人と人とのコミュニケーションとはなにか違うものを感じます。それが何かはまだわかりません。これらの文字の中に、命を含む言葉を見いだせないように思います。
パウロは「信仰は戦い」だと言っています。この戦には、神様の武具で身を固めることが大切であると教えています。さらに目を覚まして祈っていることの必要性を強調しています。身につけるべき神様の武具はすべて身を守るためのものです。しかし、霊の剣である神様のみ言葉のみが唯一攻撃性のあるもので外に出て行くものです。ただし、攻撃性があると言っても、人の心のなかにある罪に対して「神のみ言葉」が威力を持つのです。すべては福音を届けるためのみ言葉の力でます
ある講演会で、言葉には「消える言葉」と「消えない言葉」があるという話を聞きました。どちらも同じ人が同じ時に発する言葉だそうです。消える言葉とは、不用意に出した言葉のことです。自分では意識していないので、すぐに自分の中では消えてしまいます。ところがそれを聞いて心に傷ついた人にとっては一生消えることない言葉として残るのです。消えない言葉とは自分の中に残る言葉ではなく、相手に残る言葉です。この消えない言葉が下手をすると大きな怨みにもなりかねないということです。反対に何気なくいった言葉が、相手の中で大きな支えとなり、消えない言葉になることもあります。どちらも消えない言葉ならば、私たちは相手の徳になる言葉を語りたいと思います。
パウロは「わたしが適切な言葉を用いて話し」と言っています。不用意に人を傷つける言葉ではなく、適切な言葉を用いなさいと教えています。何が適切な言葉でしょうか。それは福音を大胆に示すことができる言葉です。すべては神様の前に自分の言葉を点検することです。語られた言葉が福音であるとき、届けられた言葉は神様の言葉となってその人を守り導いていくのです。
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