1テモテ 4:14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。
20年前の事です。宣教方策会議に出席しながら、ルーテル教会の中にどれだけ喜びがあるか考えていました。教会の自給自立のために四苦八苦し、会員の高年齢化を嘆き、若者の教会離れを憂い、未来の教会像が見えないまま喘いでいました。洗礼者は激減し、教会から子供の声が消え、中高生を教会内で見ることもなく、変化のない教会生活の中に喜びはどこにあるかと嘆かざるをえない状況におかれている教会の多い。いつまでこの閉塞感は続くのでしょうか。ため息ばかりでした。それが今も変わってない。むしろ悪くなっているかもしれません。それでも教会は継続されている。パウロは「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます」とフィリピ書の中で訴えています。神様に生かされている私たちにはいつも「喜び」があります。どんなに試練の時でも神様が共にいてくださるという「喜び」があるのです。それが信仰の喜びそのものです。私たちの教会は開かれた教会を目指します。一人一人が賜物をもった教会です。だからこそ信仰の喜びが輝いています。
パウロはテモテに「恵みの賜物」について語ります。これはギリシャ語では「カリスマ」という言葉です。すでに日本語にもなっている言葉です。パウロはこの「カリスマ」は特定の人にのみ与えられるものではなく、すべての人に「神様の恵みの賜物」として与えられていると言います。この与えられている賜物を軽んじることのないようにと勧めるのです。ですから「~のカリスマ」と呼ばれる人が多くてもかまいません。それらはみな、神様からの恵みの賜物だからです。
ある本に「自分に何ができるかを問うのではなく、自分に何が貢献できるかを問いなさい」という言葉を見つけました。教会や組織の在り方を考えるとき、自分に与えられている賜物が何であるかを知る事は大切なことです。自分ができることばかりでは自己中心的になります。しかし、自分がこの組織に何が貢献できるかは、自分のためでなく他者のためにあるともいえます。神様が下さっている賜物は自分のためのものでなく、共に生きるものにとっての「賜物・カリスマ」なのです。
パウロはテモテに「恵みの賜物を軽んじることのないように」と勧めています。神様がそれぞれに与えてくださっている「賜物・カリスマ」は、神様が与えて下さっているものです。神様のものであるから軽んじてはなりません。自分は神様から与えられている賜物で何をこの世に貢献できるかを考えてみましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>